▲三角山採石の歴史と今

 

昭和30年代から始まる高度経済成長期。札幌の発展には多量の建設用石材が必要とされました。それを供給したのが三角山です。まさに身を削って札幌の発展の礎となりました。

 

そして、三角山の採掘を止めたのは地元住民の反対運動です。その経緯が地元の町内会「宮の森明和会」が平成8年に発行した「宮の森明和会50年記念誌」(宮の森まちづくりセンター所蔵)に「三角山採石問題~市内初の自然保護運動」としてまとめられています(以下、原文)。

 

幻の冬季五輪回転競技場

 札幌のジャンプ発祥地は三角山の南斜面。「滑る」「走る」では飽き足らぬ愛好家たちが大正12年(1923)、仮設ジャンプ台のシルバーシャンツェ(20メートル級)、アルファーシャンツェ(15メートル級)を造ったことに始まる。昭和2年(1927)には中腹に高さ10メートルの木製やぐらは日本一の偉容を誇ったという。

だが、時代はさらに大型のジャンプ台を求めた。傾斜角度が一定の三角山では十分な着地面がとれず、昭和5年(1930)に荒井山シャンツェ(40メートル級)、翌年に大倉シャンツェ(60メートル級)が相次ぎ完成。ジャンプ競技のメッカの座は、東洋一とうたわれた両者に移り、三角山の台は人知れず消えていった。

昭和15年(1940)の冬季オリンピック大会の回転競技場になるはずだったが、戦争のため、まぼろしに終わった。

 

 

 ※2枚の写真は「三角山の緑を守る会」会員の西澤さんの父親が撮影したもの。1951(昭和26)年の夏と1953年(昭和28)年の冬の写真・・・    宮の森の手前の平地は一面の水田。かなたの三角山東斜面は回転競技用に100㍍幅で伐採されています。

 


  良質の砂利が採れる地質

 戦前、三角山は札幌神社の所有であったが、小作農に貸し出しされていた約40ヘクタールは、終戦直後、農地解放(自作農創設)のため、いったん国が買収したものの、昭和32年、再び神社所有地に戻ったが、神社施設修復費ねん出のため、民間に転売された。安山岩の山で良質な砂利が採れ、市街地へ運搬しやすいこともあり、二つの業者が競うように南斜面で採石を始めた。 

 道は昭和33年、三角山一帯を風致保有林に指定し、採石事業は「景観を損なわない程度」という条件付きで認可した。

 ▲市内初の自然保護運動

 しかし、高度経済成長期を迎え、砂利需要は急激に増加。年間8万立方㍍の石が運び出され、山の形を大きく変えていった。

 ふもとの町内会「宮の森明和会」にとって、採石は生活破壊以外の何者でもなかった。地響きを立てるダイナマイト音、運搬トラックの粉じんと騒音、失われていく緑・・・。

 同じ悩みを持つ山の手地区住民と共同で、業者に再三中止を申し入れたが、らちがあかない。思い余った住民たちは昭和39年、道と札幌市に採石中止を訴えた。市内初の自然保護運動というべき三角山採石問題は、ここで一気に本格化した。

 「採石は山そのものをなくしてしまう、終局的な自然破壊だ」(北海道自然保護協会)「ゲレンデが消え、景観を悪化する」(札幌スキー連盟)と反対を表明。三角山採石問題を巡る議論は、全市的な広がりを持ち始めた。

 採石事業自体は合法的に行われ、規制はできない。「風致保安林に指定しておきながら、採石許可も与える態度はおかしい」と、道への風当たりは強まった。

 対応策に困った道は、「三角山を公共緑地として購入しては」と札幌市に持ちかけたものの「肩代わりはごめん」と、市、市議会が猛反発。問題解決は遠ざかったかに見えた。

 ▲1966(昭41)年、採石中止

 昭和41年、事態は急転した。住民運動が一向に収まらず、採石免許の更新事務も滞ることにいらだった業者側は、事業そのものに見切りをつけたからだ。(中略)

 札幌市は結局、44年に道から半額補助を受け、1億2千万円で山を買収し、自然歩道の整備と採石地跡の緑化に乗り出した。安山岩がむき出しの垂直面は、植栽ネットの設置、植樹などに取り組んできましたが、採石の傷跡が今も大きく口をあけ、崩落がやまぬ岩場には草木も生えず、ほとんど成果があがりません。

 

ひとたび破壊された自然は容易に戻らないことがわかります